Masuk赤い丸は、インクで書かれたものではなかった。 卒業アルバムの人物一覧、その脇へ浮かび上がった小さな丸は、紙の内側から滲んだ血のように暗い赤をしている。 江藤真奈。 顔を失った女子児童の名前の横。 その一つ下にも、薄い輪郭が浮かび始めていた。 鬼束美怜は机へ両手をつき、その赤を見つめた。「これ、増えてない?」 誰もすぐには答えなかった。 大学近くの編集部室は昼間だというのにカーテンを閉め切っている。窓の向こうには学生たちの笑い声がある。廊下を誰かが走り、遠くで自動販売機の商品が落ちる乾いた音がした。 そんな日常の音が、机の上の古い卒業アルバムだけを避けて通っているようだった。 津守怜吾はノートパソコンの画面を二分割した。 左側には、昨夜の楢守小学校で録音した出席音声。 右側には、二十三年前の六年二組の名簿を撮影した画像。「最初からやる」 低い声だった。「返事を聞いた順番と、顔が消えた順番を全部合わせる」「もう宇佐見と江藤で合ってるじゃん」 茅森イオが言う。 口元へ添えた指の隙間から、失った奥歯の場所を舌で触る癖が見えた。「二人だけなら偶然と言える」「三人なら?」「偶然とは言いにくくなる」「四人なら?」「うるさい」 怜吾はイヤホンを片耳へ差し込んだ。 轟木燈夜がソファから身を起こす。「かったりいな。全部再生すんのかよ」「お前も聞け」「覚えてるって」「覚えてる記憶が消えるのを昨日見ただろ」 燈夜の口が閉じた。 右腕の袖口を左手で引き下げる。 その下には、五本指で内側から掴まれた痣がまだ残っている。 美怜は気づいたが、何も言わなかった。 怜吾が再生する。 ざ、と古い放送設備の雑音。 女性教師の声。『出席を取ります』 その一言で、部室の空気が楢守小学校の冷たさへ戻った。 名前が呼ばれる。 子どもの返事。『はい』 次。『はい』 さらに次。 誰もいない教室の各所から返った、二十三年前の児童たちの声。 怜吾は一人ずつ停止し、名簿へ番号を書き込んでいく。 一。 二。 三。 美怜は二冊の卒業アルバムを並べた。 一冊は、深町ことはの顔だけが白く抜けていたもの。 もう一冊は、ことはが普通に写っていたもの。 今ではどちらも人数が減っている。 顔を失った宇佐見章人。 次に江藤真奈。
朝になれば、少しは元へ戻っているかもしれない。 そんな期待を口にした者はいなかった。 それでも五人は、それぞれ眠れない夜を過ごし、午前十時には大学近くの編集部室へ集まっていた。 カーテンを閉め切った部屋には、昨夜持ち帰った二冊の卒業アルバムが並べられている。 二十三年前。 旧・久那瀬市立楢守小学校。 六年二組。 集合写真には、三十人しかいなかった。 空白さえない。 宇佐見章人が立っていた場所は左右の児童によって自然に埋められ、最初からその場所へ誰も存在していなかったように写真そのものが作り変わっている。 氏名欄にも宇佐見の名はない。 鬼束美怜は、机の上へ置いた紙を見た。 昨夜、記憶が消える前に五人で書き残したものだった。 宇佐見章人。 三十四歳。 設備会社勤務。 六年二組。 深町ことはの近く。 右前歯が少し欠けていた。 卒業写真は二回撮影した。 ことはは撮り直しに来なかった。 紙の文字は残っている。 今のところは。「電話、もう一回かける」 津守怜吾が言った。 ノートパソコンの脇へスマートフォンを置き、昨夜の着信履歴を開く。 宇佐見との通話履歴は残っていた。 昨日、通話が切れた直後に掛け直した時には、番号が使われていないという案内へ切り替わった。 ところが今朝。 履歴には、普通の携帯番号として表示されている。「昨日は使われてない番号だったよね」 茅森イオが覗き込む。「録音にも残ってる」 怜吾は別端末の音声を再生した。 機械音声。 現在使われていない番号であることを告げている。「なのに今日は戻った?」 イオが乾いた笑いを漏らす。「幽霊も営業時間あるんじゃない?」「笑えない」 斑鳩ちとせが言った。 イオの笑みが少しだけ固まる。「別に本気で言ってないし」「分かってる」 ちとせはアルバムから目を離さない。 右手首には、赤白の組紐が食い込んでいた跡が残っている。赤と白の線が皮膚の下で絡み合い、昨日よりも肘へ近い位置まで伸びていた。 轟木燈夜はソファへ座り、片足を机の端へ乗せていた。「出るなら早くかけろよ」「録る」 怜吾が通話録音を開始する。 美怜も配信用ではないカメラを固定した。「今日は流さないの?」 イオが訊く。「まず本人が本当に覚えてないか確認する」 怜吾が答えた
消えた顔を覚えているうちに、人間へ辿り着く必要があった。 津守怜吾は職員室の一番奥に残されていた事務机へノートパソコンを置き、卒業アルバムと画面を何度も見比べていた。 窓の外は完全に夜だった。 校庭を照らす外灯は一つも点いていない。黒い窓ガラスには、懐中電灯を置いた五人の姿だけがぼんやり映っている。 五人。 今のところは。 鬼束美怜は窓へ背を向けた。 鏡も、黒い画面も、最近は人数を数えてからでなければ見られなくなっている。「見つかった?」 美怜が怜吾の肩越しに覗く。「候補はいる」「早」「珍しい名字だからな」 怜吾は検索結果を絞り込んでいた。 卒業アルバムに残っている氏名。 宇佐見章人。 二十三年前、六年二組に在籍していた男子児童。 集合写真では、深町ことはの隣に立っていたはずの少年だった。 今、その顔だけが白く抜けている。 怜吾は学校名、卒業年度、氏名を組み合わせ、公開されている情報を一つずつ拾っていた。 同姓同名は数人。 そのうち一人。 宇佐見章人、三十四歳。 市内の設備会社に勤務。 公開されている過去の投稿には、地元の同級生らしい人物とのやり取りが残っている。 古い写真もあった。 十五年ほど前。 成人式。 黒いスーツ姿の男が友人たちと並んで笑っている。 短い黒髪。 細い目。 少し欠けた右の前歯。「この人」 斑鳩ちとせが呟いた。 怜吾が振り向く。「分かるのか」「写真で見た子と似てる」 ちとせはすぐに言った。 言葉を足すのが少し遅かった。 美怜は気づいたが、今は何も言わない。 茅森イオが怜吾の横へ顔を寄せる。「メッセージ送れる?」「公開アカウントなら」「何て?」「母校について確認したいことがある。急ぎ」「怪しすぎ」「〈KOWASU〉からですって言えば?」 美怜が口を挟む。「逆に切られる可能性ある」「じゃあ普通の取材っぽく」「嘘つく必要はない」 怜吾は短い文章を入力した。 旧・楢守小学校について確認したいことがある。 二十三年前の六年二組について。 深町ことはという同級生を覚えているか。 急な連絡で申し訳ない。 送信。 燈夜が鼻で笑う。「返事待ってる間に仕掛けた奴探した方が早くねえか」「両方やる」「こいつが犯人だったりしてな」「十一、二歳の時か
南京錠が床へ落ちたのは、五人の端末に表示された数字がゼロになった直後だった。 六時六分まで あと〇分。 その文字が消えた瞬間、放送室の外で金属音がした。 からん。 轟木燈夜が扉を引く。 先ほどまでびくともしなかった戸は、今度は何の抵抗もなく開いた。「……ふざけやがって」 廊下には誰もいなかった。 南京錠だけが床へ転がっている。 燈夜が拾い上げる。壊された跡はない。鍵穴にも傷はなく、金具は綺麗なままだった。 ただ、内側へ細い白い粉が付着している。「チョーク?」 茅森イオが覗き込む。 燈夜は親指で擦った。 白い粉の下から、小さな文字が出てきた。 六。 数字が一つだけ刻まれている。「まだそれ続けんのかよ」 燈夜は南京錠を廊下へ投げた。 硬い金属が床を跳ねる。 からん。 から、からん。 最後の音だけが遠くから返ってきた。 廊下の曲がり角より向こう。 誰かが同じ南京錠を落としたような音だった。「追う?」 鬼束美怜がスマートフォンを構える。「当然」 燈夜は即答した。 だが、津守怜吾が腕を伸ばして止めた。「先に職員室」「何で」「放送設備の記録が残ってた。昔の名簿もあるかもしれない」「犯人逃げるぞ」「今追って見つかるなら、とっくに見つかってる」 燈夜の眉が動く。「何が言いたい」「仕掛けてる人間がいるとしても、学校の情報をかなり持ってる。深町ことはのことを調べた方が早い」 数秒、二人が睨み合う。 その横で斑鳩ちとせが手首を押さえた。 赤白の組紐はもうない。 それでも皮膚へ残った赤と白の筋が、細い血管のように浮かび上がっている。「私も職員室がいいと思う」 燈夜がちとせへ視線を向ける。「お前が言うと余計怪しいんだよ」「何が」「この学校のこと、知りすぎてる」「何度も言ってるでしょ。怪談を調べてただけ」「どこで?」「昔の掲示板」「どこの?」「覚えてない」「便利だな」 ちとせの唇が固く閉じる。 美怜は二人の間へ入らなかった。 最近、ちとせを見るたび胸の奥へ細い棘が刺さる。 繭守邸でもそうだった。 井戸を知っていた。 赤白の組紐を持っていた。 深町ことはの怪談も知っている。 それなのに、訊けば必ず途中から黙る。 親友。 ずっとそう思っていた。 だが、美怜は今になって、
誰も座っていない三十三脚目の椅子を残し、五人は六年二組を出た。 廊下へ足を踏み出した瞬間、背後で教室の戸がひとりでに閉まった。 がらり。 続いて、内側から鍵を掛けるような音。 かち。 轟木燈夜が振り返った。「今度は閉じ込められねえぞ」 取っ手を掴む。 引く。 戸は開いた。 教室には三十二組の机と椅子しかなかった。 最後尾に増えていた三十三脚目が消えている。「……ほらな」 燈夜が鼻で笑った。「誰かが動かしてんだよ」「どこに?」 茅森イオが教室を覗き込む。「椅子一脚、数秒でどこへ持っていくの」「隠し扉でも床下でもあるんだろ。この学校、解体前だぞ。壁の中なんか空洞だらけでもおかしくねえ」「また壁壊す気?」「必要ならな」 燈夜の声には、怯えより怒りが勝っていた。 説明できないことが起きるたび、それを力で壊せる何かへ置き換えようとしている。 鬼束美怜には、そう見えた。 もっとも、自分も似たようなものだった。 画面へ映し、笑い、数字に変えてしまえば怖くない。 そうしてきた。 だから今も配信用のスマートフォンを下ろさない。 画面では大量のコメントが流れている。 ――帰った方がいい ――三十三脚目どこいった ――放送室見ろ ――誰かスピーカー仕込んでるって ――出席の声、人間の仕掛けじゃない? ――六人目まだ怜吾の横にいる「放送室」 美怜が最後から二つ目の書き込みを拾った。「そこ調べれば早いんじゃない?」 津守怜吾も頷く。「校内放送が本当に生きてるなら、設備側に痕跡がある」「だったら決まり」 燈夜は持ってきた校舎図面を広げた。 三階廊下の非常灯の下。 薄い紙へ五人の影が落ちる。 いや。 美怜には一瞬、六つに見えた。 瞬きをすると五つへ戻る。「放送室は二階の西端」 燈夜が指で図面をなぞる。「職員室が一階。放送設備の主電源と鍵の管理表があるなら、そっちだろ」「別れる?」 イオの声が少し上ずる。「五人でぞろぞろ動いても効率悪い」 燈夜が答える。「俺と怜吾が放送室。美怜たちは職員室」「三人ならいいか」 美怜は軽く言った。 ちとせが何も言わない。 六年二組の閉じた戸を見つめていた。「ちとせ?」「聞こえない?」「何が」「中」 全員が黙る。 教室の中から、
閉じた教室の扉は、誰が引いても開かなかった。 轟木燈夜が取っ手を掴み、力任せに横へ滑らせる。 がたん。 古い木枠が震えるだけで、戸は一センチも動かない。「何だよ、これ」 もう一度。 今度は肩を入れる。 がた、がたん。 廊下側から鍵をかけられる構造ではない。そもそも、引き戸に施錠具らしいものは残っていなかった。 津守怜吾は扉を押す燈夜の背中から視線を外し、机の上に置いた録音機を拾った。 小さな液晶では、収録された音声の波形がまだ細く震えている。「先に確認する」「何をだよ」「さっきの返事」「こんなとこで?」「外へ出られないなら同じだ」 怜吾の声は冷静だった。 だが左手の小指に巻いた黒い布が、少しずつ赤く染まっている。内側から伸びた子どもの爪が布地を押し上げ、尖った輪郭を作っていた。 鬼束美怜は最後列を見た。 窓際から六番目。 深町ことはの返事が聞こえた席。 椅子は、先ほど勝手に引かれた位置で止まっている。 肉眼では誰もいない。 しかし座面だけがわずかに沈み、机の天板には湿った手形が二つ残っていた。 黒板には、 出席 五名 欠席 一名 深町ことは 白い文字がそのまま残っている。「返事したのに欠席って、どういう意味なんだろ」 茅森イオが呟いた。「さっき本人が言ってただろ」 燈夜が扉を蹴るのをやめた。「ここにいないって」「じゃあ、あの『はい』は何?」「録音」「でも声、あそこからしたよ」「スピーカー仕込めばできんだろ」 燈夜は最後列を指した。「机の裏でも、床下でも」 斑鳩ちとせは答えず、古い出席簿を胸元へ抱えていた。 指先に力が入り、黄ばんだ紙がわずかに歪んでいる。 美怜はその様子へ目を細めた。「ちとせ、さっきから変だよ」「何が」「ことはって子の名前出るたび」「こんな状況なら誰でも変になるでしょ」「でも、返事するなって最初から言ってた」「昔聞いたって言ったじゃん」「どこで?」「覚えてない」「またそれ」「今、そこ掘る必要ある?」 ちとせの声に鋭さが混じった。 美怜の口元から笑みが消える。 二人の間へ、乾いた電子音が割り込んだ。 怜吾が録音機をノートパソコンへ繋いでいる。「喧嘩はあとにしろ」 彼は床へしゃがみ込み、機材ケースを開いた。 小型のノートパソコン。